目次
- 1 上野本町(うえのほんまち)(上野本町上町・下町)
- 2 永安町(えいあんちょう)
- 3 大桑町(おおくわまち)
- 4 大桑新町(おおくわしんまち)(★)
- 5 笠舞(かさまい)・笠舞誠心会(かさまいせいしんかい)
- 6 小立野台(こだつのだい)(★)
- 7 小立野東(こだつのひがし)(★)
- 8 大道割(だいどうわり)
- 9 舘 町(たちまち)
- 10 新舘町(しんたちまち)(★)
- 11 土清水(つちしみず)(土清水第一・第二)
- 12 錦 町(にしきまち)
- 13 双葉会(ふたばかい)
- 14 花 里(はなざと)
- 15 三口新町(みつくちしんまち)(三口新町第一・本・東・赤坂・中・南)
- 16 森丘上(もりおかかみ)
- 17 森丘下(もりおかしも)
- 18 友和会(ゆうわかい)
- 19 葭 島(よしじま)
- 20 笠舞一丁目若葉会
- 21 涌 波(わくなみ)
上野本町(うえのほんまち)(上野本町上町・下町)
私達の町は集落より発展したもので、この地域は下小立野と呼ばれた原野で、牛坂の上野とも呼ばれ牛馬の草刈場でした。
この地に定着した人々はもと山崎村の百姓で、山崎村が加賀藩進出後、農地が町になったため小立野の地に移住しました。
その後加賀藩三代前田利常の生母、寿福院が先祖の菩提寺越前府中経王寺を建立したため、農地を失い上野地域に移住したといわれます。寛永九年、辰巳御用水が開発され、その余水を用いて下小立野を開田開墾しました。上野村と称しましたが、延宝六年「上野新村」とあらためられました。
町方住民や武士が農地を相対で借請する相対請地が多くなり、貞享四年町方は金沢町奉行の支配下に入り上野町と称し、地子町の一つとなりました。
明治22年石川郡崎浦村上野新となり、昭和11年金沢市編入『上野本町』と称しました。
上野八幡神社は、文禄の頃は小立野白山町に、貞享四年小立野上野に、享保十六年、現在地に再度移転しました。
貞享六年創立の真宗大谷派の道場、聞敬坊があり、明治12年聞敬寺と寺号を称する。上野地域には多くの塚の地名が残っています。
永安町(えいあんちょう)
『永安町』何と響きの良い名前でしょう。かつては石川県石川郡大桑町末北口と呼ばれていたそうですが、去る昭和52年の町名改称により、末北口と大道割の間に産声を上げたのが、我らの町、永安町です。我が町の山上には、立派な寺「北陸白寿観音三十三霊場第十五番札所・別格本山永安寺」が鎮座され、そこから名付けられたと聞いております。しかもこの山は鶴舞山と呼ばれているとの事、その麓に「永久に安らぐ町」とは、大層縁起の良い名前だと嬉しい限りです。
さて町の今昔を振り返って見ますと、新町誕生の当初は世帯数70軒だったのが現在では107世帯の大所帯となりました。横の繋がりもうまくゆき、役員らがガッチリとスクラムを組んで町会発展のために頑張っております。しかし、町会唯一の月1回のサロン会は満10年で取りやめました。なぜかというと、デイサービスに通う人、ホームヘルパーさんが見える家庭と町会も今は高齢者の方々の所帯が半数以上になり難しくなったからです。
これからは若い人達がどう支えあって町内を盛り上げていくかが課題となりました。
ただ一つ名物は、秋のお月見会です。神主さんの祝詞で始まり、それは厳かですよ。一度見に来て欲しいですね!それと年一回の町内のマレットゴルフ大会です。
大桑町(おおくわまち)
大桑町町会、旧大桑村の古い歴史を伝える大桑町集落と区画整理事業で新しく生まれた大桑1丁目から3丁目の住宅街が混在し、まちの中央を山側外環状線が横断する犀川の西部に広がるところです。
この地域は、地質学的には世界的に名高く化石も出土する『大桑層』の上に広がり、また犀川扇状地に育まれた土地、水など自然にも恵まれ、梨、りんご、ナスなど青果物の宝庫です。近年は、区画整理により大型商業施設を中核とした住宅街に姿を変えつつありますが、近郊農業は少数ではありますが若い世代に確実に受け継がれています。
大桑(おんまともいう)の歴史は古く、遠く古代平安期まで遡ります。
その頃、 この地に幹の枝が今の末町まで及ぶ桑の大樹があったとされ、 地名の由来はそこからとったと言われています。
この地は、 加賀国加賀郡八郷の一つ大桑郷で、 平安末期には大桑郷を名字として、 加賀斉藤氏の林系の庶流である大桑三郎利光が、 この地を領地とし居館を築いたとされています。
現在目につく遺跡はありませんが、当時を偲ばす地名は法師、 城山、 御所谷など随所にみられます。 また御坊山には江戸時代まで、 真宗大谷派の善福寺 (現在、 材木町)徳善寺 (現在菊川の永順寺) の二つの寺があったものの、 前田藩は管理下に置くため城下に移転したとされ、 町内には今も門徒の方がいます。 当時は犀川上流の材木、 薪炭の集散地として栄えたそうです。
明治22年に石川郡崎浦村字大桑郷、 昭和11年に金沢市に編入し現在に至っています。
ちなみに、平成10年に設立された大桑第3土地区画整理組合は、計画事業が順調に進捗し平成22年に解散となり、新しく大桑1丁目~3丁目の地番が誕生しました。
大桑新町(おおくわしんまち)(★)
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笠舞(かさまい)・笠舞誠心会(かさまいせいしんかい)
城下町金沢の南東に位置する私達の笠舞は、その昔「笠舞村」とよばれ、石川県の崎浦村に属し、上笠舞村と下笠舞村に分かれていました。
この地域は、地学の所伝によると、太古の昔、小立野台地を犀川が侵蝕してゆく過程で造成されてきた、いわゆる河岸段丘の上に発達した台地です。地形が段丘を成し、崖の多いのも頷けられます。
下笠舞村(現在の笠舞3丁目)に鎮座されている猿丸神社、上笠舞村(現在の笠舞本町2丁目)の日吉神社(昔は糟の宮と称した)、共に村人達の守護神として崇められ、毎年春秋ともなるとお宮参りの祭礼が賑やかに町民氏子の行事として今に至っています。猿丸神社の創立は今から約千年程前の平安時代の頃といわれています。
笠舞という地名の発祥由来は、猿丸神社の守護神である猿丸太夫が、旅に発つため庵を出、荒野を経て犀川の辺りに差しかかった時、突風により太夫の被っていた笠が、急に舞い上がったのを見て、「笠舞」と名付けられたとの由来があります。
小立野台(こだつのだい)(★)
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小立野東(こだつのひがし)(★)
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大道割(だいどうわり)
大道割は、正式な地名ではなく、大桑町の一地区の通称です。江戸時代天保年間の辰巳用水の文献に、大道割の名はありますが、由来は定かではありません。ただ此処は、辰巳用水の隧道の終点であるということで、ずいどうのおわり(隧道の終わり)から、だいどうわり(大道割)と呼び名が変化したことなど、いくつか考えられていますが、明確なものはありません。
もともと戸数は少なく、昭和30年代終わり頃まで8~10戸の小さな集落でしたが、以後の区画整理で現在は130戸を越える戸数を持っています。
しかし大半は、以前のまま果樹園、水田として残っており、秋には梨、りんご等が直売されていて、近隣からの買い求める人で賑わっています。
また町内を通る辰巳用水遊歩道からは、四季の感が強く受けられ、市内の夜景が一望できることもあって環境は良い。ただ周囲は宅地化が進み、車の交通量が多くなってきていることが問題となっています。
舘 町(たちまち)
私たちの住む舘町は明治25年、崎浦村に合併、(舘小学校が上野新小学校に統合したと同時)昭和11年に金沢市に編入、現在に至っています。最近は時代の波から、町の外回りが大学、県の施設、病院、団地と変貌していますが、浅野川中流西岸に位置し、地味、豊沃で果樹栽培に適す丘陵の地“舘”は、遠く藩政の時代から果樹が栽られ、今は市内有数の桃・梨・りんごの産地である。
春四月からの開花期は、馥郁たる香りを漂し、農作業に忙しいながらも、可憐に咲く花が、目を楽しませてくれます。季節ごとに風情が変わる自然豊かな町です。
また元禄期から、コウゾ、ミツマタなどを栽培し、紙漉きを行い、和紙の産地として栄えていました。
町名の由来は、町内に冨樫晴貞四男大桑雅楽助晴光の居舘、金浦舘の舘跡があり、これが由来するといわれています。
新舘町(しんたちまち)(★)
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土清水(つちしみず)(土清水第一・第二)
「つっちょうず」 「つちしょうず」 ともいいます。 開村以前は土清水野という原野であり、 湧き清水が多かった事が地名の由来といわれる一方、 水がなくその願望から地名に水の字を入れたという説もあります。
正保三年、 加賀藩の命により、 田中覚兵衛が現在の寺津町より寺津用水を開削、 上野、 牛坂と共に灌漑の恩恵を受けました。 寛文六年、 一村立を認められ八ヶ村の出身者が土清水村を築きました。
慶安四年、 現在の石引2丁目にあった加賀藩の火薬製造所が焼失後、 当村に移転、 廃藩まで続きました。 (現在も藩祖を奉った社の跡地名が官の角として残っている。) 明治5年、 石川郡土清水村となり、 同22年石川郡崎浦村字土清水と変更されました。 昭和11年金沢市に編入、 金沢市土清水町 「つちしみず」 となり、 昭和56年、 世帯増のため二町会分割。 平成3年、 土地区画整理完了と共に土清水1丁目、 2丁目、 3丁目の一部、 錦町の一部を含めて第一町会、 3丁目の残りを第二町会としています。
錦 町(にしきまち)
錦町はもと牛首又は牛ヶ首ともいい、 小立野台地を牛の背に見立て、 当地の南部がくびれていることからこの名が付いたという。 寛文十年(1670) 村御印に記す草高は百五十一石、 免六ッ二歩(租税率62%) のほか、 当地で採集する漆に銀一匁、 山の収穫に対し銀四十八匁が併せ課せられています。
なお、 この頃の家数は5軒、 百姓数8人であり、 別に焔硝蔵の番人が開墾した二石四斗にも上納が義務付けられていました。
昭和10年、 懸案となっていた崎浦村が金沢市へ編入にあたり、 税が高くなるとの理由で村会議員全員の賛成を得ることができませんでしたが、 村民の願いと当地出身の高島仁左衛門村長の強力なるリーダーシップで、 翌11年4月1日、 三馬、 小坂村と共に第二次編入を遂げた。 この編入に際し、 牛首、 牛坂村は市の町名に馴染まないとの理由から紫錦町などの町名が候補に挙がりましたが、 時の流れを学問の時代と汲んだ高島村長は金沢高等工業学校誘致にも尽瘁した経緯から、 長男敬仁が教師として一時住んだ東京神田錦町が学生街のこともあって嘱望を込め同じ学生の町錦町に、 牛坂は朝日の昇る東に位置することから旭町と改めました。
双葉会(ふたばかい)
『小立野1丁目双葉会』は、小立野台地の西端に位置し、旧涌波街道(錦町~小立野3丁目間)沿線約400メートル脇に建つ住宅・アパート・店舗などの住居会員等を中心に閑静な住宅地を形成し、西方の四季折々の眺望(大乗寺、三小牛、夜景等)は格別なものとなっております。
当町会の歴史は、当初、世帯数が5,6軒と少ない等の事由から「錦町町会」、更には昭和39年の土地改良区域内の世帯を中心に結成された「小立野台町会」等の活動に参加したが、昭和45年、土地改良区域内の世帯数の急激な増加等に伴い「小立野台町会」・「友和会」・「双葉会」の町会に分割され現在に至っています。
また、当町会は、」結成時に比べ、子供会の会員数が著しく減少するなど高齢化の傾向にあり、それに伴い町会活動も低調傾向にあったが、近年、会員の融和を図るなどを目的として年二回(3・6月)の「花いっぱい運動」、更には会員の多数が参加できる小旅行などを企画実施するなどして明るい街づくりにつとめています。
花 里(はなざと)
我が花里町は、金沢市南東に位置し、市中心部から約3キロの犀川右岸、大桑橋と河岸段丘面間の斜面にあります。旧石浦庄に属し、市町村制施行で崎浦村から金沢市編入となりました。 長閑な田園で葡萄や梨の栽培がなされていたそうです。
昭和38年県住宅公社が「花里住宅団地区画整理事業」として造成、公募による入居が花里町のスタートです。現在は持家、県警独身寮など130世帯を超える規模の閑静な住宅街となりました。
町会発足当時は泥んこ道に加え公営バスもなく不便でしたが、現在は「花里住宅経由・東部車庫行き」と町名がバスに使われているように、利便性のよい町です。
町名由来の定説は判りませんが、三口新町戸田商店のおばあさんが生前、この辺りの田園に花里と名のつく一画があったと話されていたそうです。やがて町会も発足50周年を迎える今、我が町は町名に誇りと愛着をもち、団地を造成した県住宅公社の粋な命名に感謝しています。
三口新町(みつくちしんまち)(三口新町第一・本・東・赤坂・中・南)
寛永の大火後の寛永九年(1632)に防火用として辰巳用水が造られました。加賀藩は、この辰巳用水からの豊富な水を活用して新田開発を行うため、大道割から錦町にかけて大滝、中滝、大桑滝と呼ばれた分水路から水を取り入れる開拓計画を作りました。この事業を進めるため、石川郡や河北郡から入植者が募られましたが、その多くは浅野川下流の弓取村三口の出身者だったことから、三口新村と名付けられました。
加州三郡高付御給人帳に「寛文十年(1670)の村御印の村高二三一石、免四ツ五歩(租税率45%)、家高数7軒、百姓数8人、村高のうち74石は如来寺領(四代藩主前田光高の妻、水戸光圀の姉の菩提寺)になっていた」とあるそうです。また改作所旧記には「元禄七年(1694)辰巳用水の本格的な江浚を藩に願い出、元禄九年の土清水塩硝蔵の火事の際、人足割当八名」皇国地誌等には地名が載っているようです。
明治22年4月の市町村制施行で崎浦村の大字となり、戸数26・人口159人。昭和11年4月、崎浦村が金沢市に編入されたことに伴い、三口新町となりました。戦中戦後を通じて米作りのほか「崎浦なすび」や「崎浦生姜」など野菜生産地として知られていましたが、昭和39年から昭和41年にかけて三口新町地内の大部分の面積32.5haが地元地権者等による組合施行の土地区画整理事業が行われ、犀川大通りや3箇所の公園などが計画的に整備されて、新しい住宅地として生まれ変わりました。昭和42年10月には三口新町1・2丁目となり、48年の住居表示実施により涌波町・上野本町の一部を編入して現在の1~4丁目となりました。
尚、三口新町の日吉神社の御紋は「剣車」で加賀騒動で有名な大槻伝蔵にゆかりのご神体があるとのことです。また、町の紋は「舞扇」で神社前の公園にモニュメントがあります。
三口新町は区画整理事業後、住宅地として発展するのに伴い町会の組織が巨大化したため、昭和58年の総会で「昭和59年より6町会に分割して新発足する」ことが決まりました。
それまでの班分けをもとに三口新第一町会・本町会・東町会・赤坂町会・中町会・南町会として新しい町内会組織として各々発足し、現在に至っております。
森丘上(もりおかかみ)
辰巳用水が寛永9年(1632年)に通水するまでは、小立野台地は水源が無く、上野村のこのあたりは薪材(ばき)採集場、牛馬の草刈場であったとのことです。
その後、幕末には野坂の上がり口から東西183m、南北210mの加賀藩上野弾薬所が、さらの東側傾斜地には弾薬試験場があったことが古文書絵図(玉川図書館蔵)等に遺されています。明治10年からこの一帯は陸軍省所轄地となり、日本陸軍の金沢第7連隊の演習場として使用され、「上野練兵場」とか「上野射撃場」と通称されていました。
、戦後は復員者等に払い下げられ、田畑として開墾耕作され、町名は「上野本町」に変わりました。昭和30年頃、現在の小立野1丁目29街区(現ウッドパーク団地)は市の所有地としてその他は昭和33年頃から住宅地として造成され、約100戸の町が誕生しました。
昭和37年5月12日には森丘上町会(当初「森丘町会」と呼称)が発足しました。そして昭和39年4月金沢市の住居表示条例により、森丘町は小立野1丁目と町名が変更され現在に至りました。町会名の「森丘上町会」は変更しておりません。平成19年3月には小立野1丁目29街区の金沢市所有地にあった金沢市健康保険センター跡地が「小立野ウッドパーク団地」の名称で金沢市地区計画決定を経て販売され、その団地の約40戸が入居しました。これで森丘上町会は旧住宅・新住宅併せ約140戸が所在することになり、新旧お互いに和気あいあい暮らしております。
森丘下(もりおかしも)
戦前、この地域は、陸軍第九師団の射撃演習場でした。いくつもの小山があり原野そのものでした。
昭和21年に、開拓者達(数世帯)により開墾され、農地となりましたが、水利が悪く苦労された様です。
この時に整地され、上野本町と命名されました。後に昭和34年頃、区画整理し住宅用地として造成され、昭和36年に森丘下町と改名されました。
現在、旧金沢大学工学部の隣に位置し、平成19年度に角間へ全面移転する迄は学生達も多く住んでいました。この跡地がどのように使われるかが最大の関心事です。
また最近では、世代交代もあり閑静な住宅地にも明るい雰囲気があります。歴史の浅い町会ですが、今では約90世帯になっています。
最後に一番の自慢は、町内にある小公園から眺める四季折々の医王山や戸室山は格別です。皆様も是非眺めに来て下さい。
友和会(ゆうわかい)
私達の住む小立野台地の土地区画整理は、昭和33年頃に始まり同38年に終了しています。
それ以前の町名は上野本町であり、さらにさかのぼれば上野新村です。しかし、現在の小立野1丁目となる前の土地区画整理後のわずかの間、小立野台町と森丘町が存在していました。この頃、昭和39年に私達の町会は30世帯弱で小立野台町会として発足し、同45年、世帯数の増加に伴い小立野台町・友和会・双葉会に分かれ現在に至っています。
この30年我が町会として欠かさず実施して来たのが町会懇親会で、北陸三県を主とした観光や史跡探訪を行っています。また、昭和53年には子供会に太鼓を購入、それ以来春秋の八幡祭には子供達全員が太鼓を打鳴らし町内を巡っています。
そんな子供会の人数も年々減少し、いわゆる年寄りの町になっているのは、どこも同じ現象なのでしょうか。
葭 島(よしじま)
明治22年から昭和11年までは崎浦村大桑の一部であり、江戸時代末期に入植したのが始まりとのこと。入植した当時、葭が繁っていた事から現在の葭島と呼ばれるようになったのではと思われます。
昭和40年頃までは、世帯数も農家が6軒で、一面の田園風景でした。当時を振返ると、牛に鋤を引かせ水田を耕し、すべて人の手で田植えされていたものです。また、7月頃になると螢が飛び交う静かな所でした。今では農業を営む家も少なくなり、時代の移り変わりを感じます。
昭和34年に、野田第二中学校開設、翌35年には、城南中学校と改称(後に住所も城南1丁目となる)されました。
そんな我が町会も、昭和45年以降は新しく世帯数も増え、現在45世帯余りと、大変賑やかで明るい町会となっています。
笠舞一丁目若葉会
戦前は善光寺坂に沿って家が5、6軒。猿丸神社まで一面の田園で、笠が飛ぶ程の風が吹いたので笠舞と言われたのではないでしょうか。
今では犀川大通りもでき、大きなスーパーや病院も近く暮らしに大変便利な所になりました。また、町の中心にある笠舞第三児童公園は、昭和3年に縄文式土器や石器が出土し、笠舞A遺跡として指定されています。
現在戸数は200で、先生や大学教授、医者や社長等お偉いさんの多い町です。若葉会が誕生して27年目、崎浦地区では 一番若い町ですが、私はこの町が大好きです。
涌 波(わくなみ)
私たちの住んでいる涌波は、寛永10年(1633)辰巳水道完成の翌年に、辰巳水道余水をもって、新開地開田の藩主の御触れにより、加賀郡涌波村より7人がこれに応じたと、
村立は明らかです。 昔は河北郡崎浦村字涌波新と言われていましたが、昭和45年区画整理により涌波になりました。現在世帯数約1100戸、人口2800人です。
金沢市山側外環状線として浅野川から犀川までトンネルを掘り、涌波台地への連絡道路として、全国初のメガネと二階建ての三ツ目トンネルが、平成18年度に供用開始された。
こうしてわが町に、周囲の景観とマッチした美的な現代の土木構造物の大芸術品が出現した。
万治元年(1658)より明治4年(1871)まで213年間続いた土清水塩硝蔵跡を、平成18年より発掘調査の結果、敷地6万5千㎡(兼六園より大きい)の加賀藩の軍事施設である
火薬製造所の存在が確認され、江戸時代における希有な藩立の軍事施設と判明し、金沢市では国史跡指定に向けて作業が進んでいます。