加賀藩の海岸防衛と鈴見鋳造所

加賀藩の海岸防衛

文政8年(1825)2月、幕府はわが国近海に出没する外国船に「打ち払い令」を発令しました。藩命により金谷多門らが加賀・能登・越中における台場築造位置の調査に金沢を出発したのは嘉永3年(1850)6月9日、三州を廻り同26日に帰沢し、8月14日本年内に築造すべき6か所(本吉・大野・黒島・輪島・宇出津・伏木)が報告され、年内に築造が開始されました。
また嘉永4年(1851)加賀藩に鈴見鋳造所建設し、大砲・鉄砲・弾薬の製造が開始されました。それに続いて今浜・狼煙・氷見・放生津・生地・寺津・畝田の台場が築造されました。生地台場はこれら施設のうち唯一残存し、昭和40年富山県指定文化財になりました。この台場は5辺からなる円弧状で、外周り36間1尺9寸、内周り29間1尺、断面の高さは外側9尺、内側5尺5寸、基台巾約3間でした。
各台場には臼砲、カノン砲などが配備されていました。弾丸と火薬は1日500砲が用意されましたが、大砲を撃つ人数445人の確保が困難だったとのことです。
加賀藩の台場は最終的に使用されることはありませんでした。

加賀藩鈴見鋳造所

わが国への異国船来航増加により、幕府の「海防強化令」により台場を築造しましたが、配備されたのは旧来の大筒で、十分な防衛能力を持っていませんでした。そこで加賀藩で大砲鋳造所の建設が持ち上がって、嘉永4年鋳物師窯屋弥吉に命じて鈴見鋳造所の建設に取り組むことになりました。敷地面積2万㎡で、嘉永6年(1853)から大砲と弾丸の生産に入りました。弥吉の手元で働く職人は「親子兄弟といえども、一切他言はしない」との血判を押した誓詞を提出しました。
鈴見鋳造所は鋳造所・錐台所・倉庫・役所からなり、「イゾウバ川」の水を錐台所の動力源にしていました。さらに小筒細工所(鉄砲製作)と小筒炉場が加わり巨大な施設でした。
鋳造所には5基のタタラ炉とタタラ鞴(ふいご)がありました。炉の中心に大砲の石型が立てられ、溶融した青銅が樋に流し込まれ、鋳造場で弾丸の製造も行われました。錐台所は角間川から導水の用水が動力源となり、屋内の直経推定4間×水路巾約1間の水車をまわして、砲身を機械に固定し、錐の刃で砲腔部分に押し込むようにして孔を刳り抜いていました。
鈴見鋳造所での必要人員は131人で、造られた大砲は初期は鋳鉄砲でしたが、安政年間へ入ると青鉄砲が主流になりました。鋳鉄砲は火薬の爆発に伴い砲身の破裂が起きやすいため、砲身をを柔軟性のある青鉄砲にされたのです。当時の大砲は臼砲・忽砲・カノン砲及び野戦砲に大別されていました。最終的に、ここで生産の大砲は213挺で、江戸下屋敷で鋳造の40挺を加え、総数は253挺となり、幕府に次いで多量を保持していました。
鈴見鋳造所で生産の大砲、弾薬、火薬等は、川舟で大野まで運ばれ、大船に積み替えられて加賀・能登・越中の台場へ輸送されました。石型の製作に使用の柴垣土は能登から、三小牛土は金沢三小牛から、さらにコシキ炉の吹炭は能登の堅い炭の樫炭を使用し、石型の加熱には遣り炭として能登産松炭が使用されました。
鈴見鋳造所は明治2年2月4日夜に出火。全焼してその歴史を閉じました。