硫黄と木炭の生産

硫黄の生産

白山の地獄谷にも硫黄がありますが、運搬路の確保ができないため立山地獄谷の自噴する硫黄が採集されました。ここは早くから岩峅寺衆徒によって、八郎坂を通り富山へ運搬されていたとのことです。
文政5年(1822)に新川郡青出村の出村平四郎が、運搬ルートを変え、早月谷(室堂乗越)を竹橇で降ろし、馬場島で大鉄鍋で精製し、上質の「出来硫黄」として馬で滑川の「東御蔵所」へ運びました。
平成18年9月16日、私、谷内賢正は何回目かの中山(劔岳遥拝所)登山にでかけました。

 

硫黄は数年置いたものが良く、硫黄箱「杉製・8貫目」を駅馬1頭が4箱積んで、滑川から小杉、津幡、土清水へ2泊3日で運びました。

木炭の生産

火薬の製造に必須の木炭は薩摩藩では柳の枝が使われたとのことで、加賀藩も同様かと思っていましたが、平成22年3月、板垣英治金沢大学名誉教授が加賀藩壮猶館主付成瀬正居の「壮猶館御用日記」(安政2年3月)から次の指摘をされました。同日記に木炭は麻木を焼いて作ったと記され、土清水薬合所内の「麻木蔵」では麻木を乾燥して保存し、「灰焼所」では麻木を熱い灰に埋めて炭化させ、「炭化炉」とも称した。
涌波区画整理事業で大量の灰が出土しましたが,木灰に麻木を埋めて加熱した残骸であった可能性が大きい。その麻木の産地はどこか、中能登は古くから麻を栽培して「能登上布」を生産していました。木質部を「麻木」として金沢へ送っていたかも知れません。また、石川郡村誌に麻栽培の記録があります。大桑村民謡「あさんがえし」は麻木を干す作業唄です。

※この項は金沢大学名誉教授 板垣英治『日本海域研究第41号別冊』を参考にしました。