見て歩きマップ

崎浦地区の名所旧跡や神社仏閣など、身近な探訪スポットを紹介します。

辰巳用水と遊歩道

 (遊歩道):錦町~大桑町カ(大道割)

辰巳用水は、寛永9年(1632)金沢城で使用する水を引くため、3代加賀藩主・前田利常の命により、板屋兵四郎が完成させたといわれている。全長約11キロメートル、その高い土木技術は、今の時代から見ても賞賛されるもので、貴重な史跡となっている。
また、遊歩道はこの用水に沿って豊かな自然にふれあう場として、全長約2キロメートルが平成6年(1994)に完成した。
2010年2月に、辰巳用水の延長約11kmうち、上流部および中流部の約8.7kmが、「江戸時代の土木技術を知る上で貴重である」として、国の史跡に指定されている。

大桑層(おんまそう)

 大桑貝殻橋付近

 大桑層は、大桑町の北はずれに位置し、160~80万年前の貝化石ほか、クジラの骨、トドの下顎骨なども出土している。貝殻は化石となって色彩を残し、今のものと区別がつかないほど。また、植物の化石も発見され、現在も動植物の化石の研究上貴重な存在となっている。

土清水塩硝蔵跡地

 大桑町癸(き)〜涌波1丁目

 土清水塩硝蔵(製薬所)は、江戸時代に加賀藩が設置した黒色火薬製造施設。万治元年(1658)から明治3年(1870)頃まで火薬の原材料である塩硝(硝石=硝酸カリウム)、硫黄、木炭を集積し、敷地内で火薬への加工を行っていた。塩硝は越中五箇山で生産され「塩硝の道」を通ってここへ運ばれた。敷地全面積は幕末時点で約11万㎡。
*土清水製薬所(土清水塩硝蔵)について

塩硝坂

 涌波町癸(き)

 土清水バス停から辰巳用水まで「くの字」に曲がる丸太階段で降りる坂。ここは昭和5年に金沢市の上水道の送水管を敷設した箇所で、後に階段坂となる。藩政期に火薬製造所へ実際に塩硝を運んだ坂道ではないが、ここを挟んで同じ斜面の二箇所に本来の意味である道の痕跡がわずかに残る。坂上にはバス停もあり利用者は多い。

明治天皇御野立所跡

 小立野1丁目・児童公園内

 明治11年(1878)10月3日の金沢歩兵第7連隊操練御親閲を記念し、昭和4年(1929)11月3日に建てられた石碑で、陸軍中将・永井来謹書となっている。
 この地は、太平洋戦争の終戦まで陸軍の練兵場・射撃場として使用され、戦後農地として払い下げられた。その後、区画整理され現在に至っている。

上野八幡神社

 小立野2丁目4-1

 天正12年(1584)、金沢城へ前田利家公が入城のころ、守護神として八幡神を祀り能州天平寺に住んでいた空山という前田公の信任厚かった源氏の名将の子孫が、現在地に移転したといわれている。
 境内には、明治8年(1875)宝幢寺の境内から移した芭蕉の句碑がある。
“ 山さむし 心の底や 水の月 ”

涌波の日吉神社

 涌波3丁目6-7

 年代不詳だが、栗林という地に大山咋神を祭神として祀る。明治41年(1908)内務省令により三口新町日吉神社に合祀。昭和27年(1952)現地に再び祀られた。

笠舞の日吉神社

 笠舞本町2丁目8-15

 この社は「おこり」の守り神として信仰され、酒粕を奉納して祈願したため「粕の宮」としても知られている。
祭神は、大山咋神を祀るといわれ、境内には名木として知られる樹高33メートル、幹周5.27メートル、枝巾28メートルの「笠舞の欅」がある。

大桑の日吉神社

 大桑町ト-22

 その昔、毒蛇の住む桑の大樹を里人が伐り、大山咋神を祀ったところ、良田を得、里が開けたところから「大桑」と称されたといわれる。
 境内入口に建つ石と煉瓦で作った楼門型の鳥居は、明治初期、村で起こったもめ事の和睦の際に献上した二つの鳥居の一方で、県内でも珍しい様式とのこと。

三口の日吉神社

 三口新町3丁目21-3

 享保20年(1735)創建。大山咋神を祀る。前田利常公の守護神で、珠姫がお輿入れの際に父秀忠公より江戸地域の守護神を拝受し、持参した神と伝えられている。境内の時冠面積は1020平方メートル、緑被率90%の典型的な鎮守の社である。

錦町の八幡神社

 錦町6-23

 錦町6-23天正年間(1573~1592)創建とされ、天保10年(1840)現在の地に鎮座。応神天皇を主祭神とする。天正13年(1586)、佐々成政勢と前田利家勢との合戦がこの地であったことにより押ヶ首という名でも呼ばれていた。樹冠面積580平方メートル、緑被率91%の静かな鎮守の森である。

土清水の八幡神社

 土清水1丁目247

 天正年間(1573~1592)の創始。応神天皇を主祭神とする。
 万治元年(1658)、加賀藩の火薬調合所がこの地に移ってきたことから、武家の信仰が厚かったといわれている。

舘町(たちまち)の八幡神社

 舘町285

 応神天皇・神功皇后を主祭神とし往古より鎮座。境内が船の形をしていることから俗称「出船の社」として親しまれている。また、神社の篠笹を受けると安産疑いなしと古くより信仰されてきた。
 天正年間(1573~1592)、佐久間盛政がこの地に武家屋敷を置いたことから舘(やかた)と称されるという。

聞敬寺(もんきょうじ)

  小立野3丁目23-3

 貞享元年(1684)聞敬坊として創建され、以来約二百年を経て明治13年(1880)に聞敬寺となる。
境内に高くそびえる黒松が、古い由緒をしのばせている。

永安寺

 舘山町キ1-7

創建は古く約五百年ほど昔に足利義尚が遠江の国に造営したと伝えられ、今から約80年前に加賀藩前田慶寧公の外孫にあたる大阿闍梨霊光僧正が当地に移した。
境内には高さ10メートルもの愛染大明王の像があり、恋愛成就、縁結びの仏様として、若い人からも親しまれている。

善光寺坂の地蔵尊

 小立野3丁目4-26

 善光寺坂上の地蔵堂に安置されており、丈は約2メートル。お堂の床ではなく地面に立っている。明治時代からの言い伝えによれば、上野町に火災があった時に「家事やぞ」「火事やぞ」と触れ回る人があり、誰とも分からず、この地蔵地蔵様ではないかといわれた。霊験あらたかなエピソードも多く残り、現在も町の人々に大切に奉られている。

涌波の地蔵尊

 涌波3丁目5-17

大正8年(1919)開眼供養。堂内には、越前の青石で造られた立像が三体安置されている。
地蔵尊は身長約90センチメートル、両脇尊は身長約60センチメートルあり、野田寺町の大円寺より遷座された。そのおだやかなお姿は、地域の人々に広く親しまれている。

笠舞の地蔵尊

 笠舞2丁目21-11

藩政期に刑死者の供養に建てられたとする説もあるが、天保8年(1838)6月までに天保の飢饉で、この地にあった「笠舞お救い小屋」に四千人余が収容されたとの記録があり、餓死や疫病死した人々の追善供養の為に安置されたともいわれている。

錦町の地蔵尊

 錦町5地内(錦町墓所内)

 土清水バス停近く、錦町墓所の最奥に安置されている。法衣の正面には「寶圓三十二世」、背には「弘化三午年五月十七日」と刻まれている。「寶圓三十二世」は宝町にある前田家菩提寺の宝円寺第三十二代住職(蘭秀番外)であるが、台座に太岩寺と一閑院の名がある。いずれも宝円寺末寺。太岩寺は大正5年に金沢から現・かほく市上田名へ移転、後に焼失して再建されていない。宝円寺の山門が再建されたのと同じ弘化三年に太岩寺に置かれた地蔵尊が、廃寺によりこの地に引き取られたとする説もある。

大桑の不動尊

 大桑新町子(涌波2丁目)

約百年以上前に寄進された石仏。その昔、大桑の村が日照りによる飢饉にみまわれたとき、宝集寺・六角堂の住職がこの不動尊に願をかけ、雨乞いの儀式を行ったと伝えられる。
また、近くにある滝は、密教修験者の修行の場であったといわれ、現在も目の病に霊験あらたかな不動尊として知られている。

園祖・小野太三郎翁顕彰碑

 三口新町1丁目8-1 陽風園内

小野陽風園の園祖である小野太三郎氏の慈愛に満ちた一生を賛え園内に建つ。その碑には次の記載がある。
「天保11年(1840)加賀の国に生まれる。明治6年(1873)貧窮者を救護。爾来私財を投じて窮老者、孤児、廃疾者を救った。明治38年(1905)慈善院を創設する。慈恵に浴する者実に九千余。明治45年(1912)73才で没す」

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見て歩きマップ 0.1 辰巳用水と遊歩道 0.2 大桑層(おんまそう) 0.3 土清水塩硝蔵跡地 0.4 塩硝坂 0.5 明治天皇御野立所跡 0.6 上野八幡神社 0.7 涌波の日吉神社 0.8 笠舞の日吉神社 0.9 大桑の日吉神社 0.10 三口の日吉神社 0.11 錦町の八幡神社 0.12 土清水の八幡神社 0.13 舘町(たちまち)の八幡神社 0.14 聞敬寺(もんきょうじ) 0.15 永安寺 0.16 善光寺坂の地蔵尊 0.17 涌波の地蔵尊 0.18 笠舞の地蔵尊 0.19 錦町の地蔵尊 0.20 大桑の不動尊 0.21 園祖・小野太三郎翁顕彰碑