前記の本に記載のとおり、1543年にわが国へ鉄砲が伝来して30年後に、すでに五箇山で塩硝が作られていました。天正11年(1583年)金沢城へ前田利家が入城。天正13年に二代利長が越中を支配し、慶長10年(1604年)から年貢として塩硝を差し出させ、漸次その量を増やし、寛永14年(1637年)から、上塩硝40斤入り94個、天明年間(1781年~)で114個となり、この量 が廃藩時まで定式買上量とされました。
(1)塩硝の定式買上と備蓄
藩が塩硝を生産させ、定式買上して備蓄した理由を考えてみます。
1. 加賀藩は当初の頃、豊臣の息のかかった大名として幕府から取り潰しの脅威のもとにあり、無言の武力として塩硝を確保しておくことが必要であった。2. 加賀藩は当初の頃、領地内に一向一揆の残党がおり、これに備える武力として塩硝を確保しておく必要があった。
3. 藩は生産力の少ない五箇山に塩硝を生産させ、これを年貢として納めさせた。
4. 五箇山産塩硝は、我が国随一の品質を持続したが、その生産は仕掛けから仕上げまで、最低5年の年月が必要であり、買上量 の変動があっては、生産者の産量維持に支障が出る。
5. 藩が慶安4年(1651年)から明歴2年(1656年)にかけて実施の農政の大改革「改作法」は、毎年同量 の収穫米を上納させるものだが、塩硝についても同様の方式を採ったのではないか。
(2)塩硝の消化策と藩財政への影響
藩は毎年2000斤(約4トン)を超える塩硝を200年余にわたって買い上げて、どのように処分したのだろうか。黒船来航の幕末には、貯蔵塩硝を一掃のうえ、さらに増産を督励したが、それ以外の時期にはどのように消化し、流通を計ったのか。塩硝は兵器用や猟銃用のほか、花火、薬品などに用途があり、事実相当量 の塩硝が主として大阪方面へ船出しされ、藩の財政確保に寄与したと思われ、また廃藩時に約560トンの火薬が藩に備蓄されていたとのことだが、これらのことについても、今後廃藩の実態とあわせ研究の眼を向けたい。