湯涌から塩硝蔵への道

湯涌から涌波への道

旧来、山と川に沿ってのジグザグの道でしたが、昭和5年に湯涌に白雲楼ホテルが開業とともに、その山と川に沿ったまま石川県内最初の一車線の改良舗装がされました。現在の「湯涌街道」と称される道はその後の改修により、はほとんど直線に進んでいます。舘町の八幡神社の脇に立派な神木があります。この木が小さかった頃には、牛方十数人による塩硝隊列が通過するのを見守ったことでしょう。
舘町から湯涌街道を少し進むとクリーンサイクルの手前左側にりんご園へ入る農道があります。ここから土清水へ上がる道が五郎谷坂です。昭和15年まではこれが湯涌街道で、登り切ったところに塩硝茶屋がありました。その近くが土清水製薬所の入口です。入口は2か所ありましたが、北側の古道の塩硝坂長さ約30m×道幅約2mは現在確認できます。
現在「塩硝坂」と呼称の石段の坂は、昭和5年、金沢市上水道敷設時に付近住民の生活道路として造成されたものです。

湯涌から末への道(湯涌から犀川方面へ進み、瀬領、上辰巳、末への経路)

この経路は、湯涌~瀬領や菅池方面との行き交いに峠越えをしたであろうし、それが湯涌を通って金沢へ向かうのに利用され、塩硝の運搬にも使われたとのことです。ただ、どの程度の頻度で使用されたかは、今後調しなければなりません。
平成11年8月29日、現地を調査しました。芝原から西へ向けて峠道を過ぎ、昔の道はこんな風だったかと静かな道を進みました。菅池町、瀬領町を経ると眼下に犀川が流れています。犀川に沿って上辰巳の辰巳用水取入口まで来ました。この水が塩硝蔵近くで水車を回し、塩硝を調合したのです。もっとも辰巳用水取入口から金沢城までの距離は、当初は約8キロで、調査時は約11キロでした。この実査時には上辰巳の辰巳用水取り入れ口付近はは辰己ダム建設中でした。
末町の河口様方で表側に梵字、裏側に「弾薬所」と記載の箱(写真左)を見せてもらいました。河口様は、金沢近郊の方から譲り受けたとのことです。