塩硝蔵のあった涌波周辺

塩硝の道で、道の変化の大きな原因になっているのは、自然損壊、道路の付け替え、ダム建設、団地造成等ですが、土清水、涌波等の変化は大きいと思います。浅野川沿いに館町まで来て土清水町へ上がる道(地図と写真の場所)は、昭和15年頃までは現在のクリーンライフ(株)側から土清水町へ木炭自動車があえぎながら上がっていた と地元の方が述べておられました。
平成11年5月29日、涌波堤公園付近を中心に現地調査をしました。公園の東南側に石積み(石種は滝ヶ原石)があり、塩硝蔵敷地内の水路に敷きつめられたたものの一部と考えられます。
ただしこれは公園整備の際にモニュメント的に置かれたもので、実在した場所を示すものではありません。次に涌波日吉神社で「涌波開村三百五十周年記念涌波風景絵額」を見せていただきました。塩硝蔵等の全景(写真右)が描かれており、当時を偲ばせる貴重な絵額です。
また、平成11年6月29日には医王山公民館で、奥新保集落(石川県と富山県の県境)に住んでおられた林一族の子孫の方から話を聞きました。渡来仏教と、それが塩硝を含め地域へ及ぼした影響等が中心でした。