塩硝製薬所、塩硝蔵の増設

 幕末の黒船騒動から塩硝の需要が高まり、加賀藩では塩硝の生産は五箇山だけでは追い付かず、藩内に幾箇所も新たに塩硝の生産をさせました。また、塩硝製薬所や塩硝蔵を増設しました。平成13年度に調査したのは、上野弾薬所、田上塩硝蔵、野田塩硝蔵、小柳製薬所です。これらについて記述します。
(1)上野弾薬所
 現在の小立野1丁目にあった弾薬所と試験場のことです。7月8日と8月28日の22回にわたって現地調査をしました。「慶応2年6月弾薬所御地取絵図」(玉川図書館近世資料館蔵)には、東西に101間、南北に116間の大きさで土居に囲まれた塩硝蔵があり、さらに小立野台地と浅野川との間に、塩硝試験場が設置されていました。私たちは現地を巻尺で計測して、前述の絵図に記載の面積と、野坂と云われる下田上橋から上野弾薬所入り口までの距離を確認することができました。 この上野弾薬所は、明治10年陸軍省所轄地になり、明治11年10月金沢歩兵第七連隊が明治天皇の御親閲を受けました。(小立野1丁目児童公園に石碑があります) 前記の野坂は、一部に現在も古い姿を残しており、とりわけこの道は戸室山から金沢城へ石を運んだ道でもあり、私たちは、石川郷土史学会・北島敏朗先生の戸室石引道の文献などを勉強しました。また、歴史家杉本晴介先生の二俣の道についても勉強しました。野坂は「オオサカ」と呼ばれ、古くから大通りであったということです。
(2)田上塩硝蔵
 安政元年(1854)、現在の金沢市田上町、田上運動広場に接する地に設置され、北側は山地に、他の三方向は畑が隣接していたことが玉川図書館近世資料館所蔵の絵図に示されています。
(3)野田塩硝蔵
 幕末に、現在の法島町の崖地に沿う形で83間、東西方向に50間の広さであったことが玉川図書館近世資料館所蔵の絵図に示されています。現在この地は、南北方向に約100メートル東西方向に約50メートルの墓地で、松林や竹林に囲まれ鬱蒼としています。その東北側の崖には、「法島町急傾斜地崖崩壊危険地域/石川県」と掲示されています。
(4)小柳製薬所
 現在の石川郡鶴来町の小柳町から日御子町にわたって設置され、幕末に数年間使用されました。高橋川(富樫用水)沿いに製薬所、そこから約300メートル西方に塩硝蔵があったことが、玉川図書館近世資料館所蔵の絵図に示されています。北陸鉄道の日御子駅付近や倉ケ岳へ行く道筋がこの塩硝製薬所や塩硝蔵にゆかりの深い地域です。