塩硝の道 飛騨街道

五箇山から土清水塩硝蔵への主な搬送路が4通りあると述べましたが、一般的に塩硝の道と言えば、西赤尾―ブナオ峠―西赤尾―中河内(なかのこうち)―刀利―横谷峠―金沢の飛騨街道(現富山県道54号線)筋が代表格と思います。この飛騨街道を調査したときの状況を簡単にルポします。

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西赤尾~刀利~横谷間
行程は約22km、道路は1車線で一応舗装されていますが、ところどころ砂利道で、ダム湖尻付近のトンネルは大型車の通行はできません。
下小屋~中河内間
旧道は、小矢部川本流が深く切り立った峡谷のため越戸峠を利用。現在の道は、長瀞沿い。
刀利ダム
昭和42年完成。これにより下刀利、刀利、滝谷の集落は水没。その前後に中河内、下小屋の集落は離村。
刀利~横谷間
刀利から横谷への旧道(刀利ダムにより水没)は急勾配のため、前にそそり立ち、人が左右に揺れ斜めに登るので、下からは舞いをまっているように見え、「舞坂」とも言われました。荷物があると登るのに困難なため、川沿いに下って小院瀬見~横谷峠経由で塩硝が運ばれました。

・西赤尾からブナオ峠(標高1000メートル)までは林道がありますが、次のブナオ峠から中河内までは通路が荒れていて歩行がようやくできる状態です。
・廃村になった下小屋(しもごや)集落の屋敷跡が残っています。
・中河内には川辺りの平地に、太美山分校跡地の石柱があります。夏は小矢部川のせせらぎが快く聞こえます。かつて倉谷鉱山が栄えた頃、この地に遊廓があったと伝えられています。
・小矢部川右岸を下っていくと、刀利集落跡(昭和37年廃村)の山崎公園があります。そこに「刀利の史話」碑があり、刀利は「戦国時代の落武者が住みついた。金沢より刀利、西赤尾、白川を経て尾張への重要な街道で、武士、飛脚、行商人の往来で賑わった」と記されています。水没地の東方山頂に刀利城跡があり、城主は宇野宗右衛門で、佐々成政、前田利家に仕えたとのことです。