塩硝の道

塩硝製造工程のうち灰汁煮屋は誰でもが営むことができましたが、中煮(ちゅうに)と上煮は上煮塩硝株を持つ有力百姓にのみ認められました。集めた灰汁煮を何回も煮詰めて不純物を少なくすることで、上煮塩硝ができました。土清水塩硝蔵が受け入れるのは上煮塩硝のみですから、上煮屋の所在地が塩硝の道の出発点になります。
文化14年(1817)には、17の上煮屋で114箇(1箇45㎏・12貫)の塩硝が次のルートで1泊2日により金沢へ牛の背で運ばれました。

利賀谷北部……杉谷峠―井波―福光―二俣―田上―金沢
利賀谷南部……下梨谷―朴峠―城端―二俣または横谷峠―金沢
小瀬……小瀬峠―二俣または横谷峠―金沢
西赤尾……ブナオ峠―横谷峠―金沢

塩硝が土清水塩硝製薬所で役人へ渡されると、8日間かけて品質検査が行われ、8等級に分けられ、代金が精算されました。その間、御貸屋と称する施設で宿泊し、金沢で米など必需品を買い、帰途は1日または2日で帰りました。

塩硝箱

塩硝は、塩硝箱に入れて人の背や、牛や馬の背に乗せて運び、藩へ塩硝箱に入れた状態で納めたのです。
御召塩硝としての加賀藩の塩硝買上げは、寛永14年(1637)以降といわれ、94個が定式となり、天明5年(1785)の改法によって、114個40斤入り)になりました。この間に不安定な買上げになった時期もあったといわれていますが、ほぼこの数量が続けられ、幕末嘉永の頃から異国船騒ぎによって急拠御召塩硝量が増加。寛永5年(1858)に「新土坪増仕法」によって増産体制がとられました。
このように加賀藩は、定式に上塩硝を塩硝箱の個数で買上げたのですが、塩硝箱の大きさは一定の寸法であった筈です。現在、五箇山や石川県立歴史博物館等に所蔵の塩硝箱は、定式買上げに適合したものか、検討が必要であります。平成11年3月31日発行の「館報崎浦」に記載の土清水町湯原家に伝わる塩硝箱がこのほど同家のご好意により崎浦公民館へ寄贈されました。その寸法はおそらく定式寸法でないかと思います。