錦 町(にしきまち)

錦町はもと牛首又は牛ヶ首ともいい、 小立野台地を牛の背に見立て、 当地の南部がくびれていることからこの名が付いたという。 寛文十年(1670) 村御印に記す草高は百五十一石、 免六ッ二歩(租税率62%) のほか、 当地で採集する漆に銀一匁、 山の収穫に対し銀四十八匁が併せ課せられています。
なお、 この頃の家数は5軒、 百姓数8人であり、 別に焔硝蔵の番人が開墾した二石四斗にも上納が義務付けられていました。
昭和10年、 懸案となっていた崎浦村が金沢市へ編入にあたり、 税が高くなるとの理由で村会議員全員の賛成を得ることができませんでしたが、 村民の願いと当地出身の高島仁左衛門村長の強力なるリーダーシップで、 翌11年4月1日、 三馬、 小坂村と共に第二次編入を遂げた。 この編入に際し、 牛首、 牛坂村は市の町名に馴染まないとの理由から紫錦町などの町名が候補に挙がりましたが、 時の流れを学問の時代と汲んだ高島村長は金沢高等工業学校誘致にも尽瘁した経緯から、 長男敬仁が教師として一時住んだ東京神田錦町が学生街のこともあって嘱望を込め同じ学生の町錦町に、 牛坂は朝日の昇る東に位置することから旭町と改めました。