三口新町(みつくちしんまち)(三口新町第一・本・東・赤坂・中・南)

寛永の大火後の寛永九年(1632)に防火用として辰巳用水が造られました。加賀藩は、この辰巳用水からの豊富な水を活用して新田開発を行うため、大道割から錦町にかけて大滝、中滝、大桑滝と呼ばれた分水路から水を取り入れる開拓計画を作りました。この事業を進めるため、石川郡や河北郡から入植者が募られましたが、その多くは浅野川下流の弓取村三口の出身者だったことから、三口新村と名付けられました。
加州三郡高付御給人帳に「寛文十年(1670)の村御印の村高二三一石、免四ツ五歩(租税率45%)、家高数7軒、百姓数8人、村高のうち74石は如来寺領(四代藩主前田光高の妻、水戸光圀の姉の菩提寺)になっていた」とあるそうです。また改作所旧記には「元禄七年(1694)辰巳用水の本格的な江浚を藩に願い出、元禄九年の土清水塩硝蔵の火事の際、人足割当八名」皇国地誌等には地名が載っているようです。
明治22年4月の市町村制施行で崎浦村の大字となり、戸数26・人口159人。昭和11年4月、崎浦村が金沢市に編入されたことに伴い、三口新町となりました。戦中戦後を通じて米作りのほか「崎浦なすび」や「崎浦生姜」など野菜生産地として知られていましたが、昭和39年から昭和41年にかけて三口新町地内の大部分の面積32.5haが地元地権者等による組合施行の土地区画整理事業が行われ、犀川大通りや3箇所の公園などが計画的に整備されて、新しい住宅地として生まれ変わりました。昭和42年10月には三口新町1・2丁目となり、48年の住居表示実施により涌波町・上野本町の一部を編入して現在の1~4丁目となりました。
尚、三口新町の日吉神社の御紋は「剣車」で加賀騒動で有名な大槻伝蔵にゆかりのご神体があるとのことです。また、町の紋は「舞扇」で神社前の公園にモニュメントがあります。
三口新町は区画整理事業後、住宅地として発展するのに伴い町会の組織が巨大化したため、昭和58年の総会で「昭和59年より6町会に分割して新発足する」ことが決まりました。
それまでの班分けをもとに三口新第一町会・本町会・東町会・赤坂町会・中町会・南町会として新しい町内会組織として各々発足し、現在に至っております。