葭 島(よしじま)

明治22年から昭和11年までは崎浦村大桑の一部であり、江戸時代末期に入植したのが始まりとのこと。入植した当時、葭が繁っていた事から現在の葭島と呼ばれるようになったのではと思われます。
昭和40年頃までは、世帯数も農家が6軒で、一面の田園風景でした。当時を振返ると、牛に鋤を引かせ水田を耕し、すべて人の手で田植えされていたものです。また、7月頃になると螢が飛び交う静かな所でした。今では農業を営む家も少なくなり、時代の移り変わりを感じます。
昭和34年に、野田第二中学校開設、翌35年には、城南中学校と改称(後に住所も城南1丁目となる)されました。
そんな我が町会も、昭和45年以降は新しく世帯数も増え、現在45世帯余りと、大変賑やかで明るい町会となっています。